pub-3714318710564256日本人は周りの目を気にしすぎる?イタリアで感じた違い | 育成思考|子どもの可能性と向き合う

日本人は本当に“道徳的”なのか?|イタリアに住んで感じる「同調社会」の違い

日本って、海外から見ると、
本当に「ルールが守られる国」というイメージが強いと思います。

実際、
街も綺麗だし、
犯罪も比較的少なく、
公共の場でも秩序が保たれている

ワールドカップなどで、
日本人サポーターがゴミを拾って帰る姿が話題になることもありますよね。

私自身、それは本当に素晴らしい文化だと思っています。

でも、イタリアで生活していると、
少し違う見え方をすることがあります。

この記事はこんな方におすすめです

  • 「周りの目」を気にしすぎて苦しくなる感覚がある方
  • 子どもの主体性や自己肯定感を育てたい方
  • 「みんなと同じ」でないと不安になる空気に違和感がある方
  • 日本とイタリアの価値観の違いに興味がある方

日本は「見られている社会」?

イタリアで生活していて感じるのは、
日本は「人に見られている前提」で成り立っている部分が大きい社会なのかもしれない、ということです。

周りの目がある。
みんなが見ている。
外れると浮く。

だから、ルールを守る。

もちろん、それは日本の良さでもあります。

実際、日本は本当に秩序が保たれているし、
街も綺麗で、公共の場でも気持ちよく過ごせることが多い。

でもその背景には、
「道徳性の高さ」だけではなく、

・人の目
・同調
・空気

そういったものも、かなり大きく働いている気がしています。

例えば日本って、
「みんながやっているから、自分もやる」
という感覚がとても強い国だと思うんです。

それは悪い意味だけではなく、
良い方向にも強く働きます。

ワールドカップなどで、
日本人サポーターがゴミを拾って帰る姿が話題になることがありますよね。

ああいう姿は、本当に素晴らしいと思います。

ただ同時に、
「みんながやっているから、自分もやる」
という空気も、日本人にはかなり強くある気がしています。

それが良い方向に働けば、
日本の綺麗さや秩序につながる。

でも逆に、
悪い方向に働くこともある。

「みんながやっているから」
「見つからないなら大丈夫かな」
「周りもそうしているし」

そういう感覚も、
正直、日本人の中にはかなりあるのではないかと思っています。

そしてそれは、
日本人に道徳がないという話ではなく、

日本では「自分の中の基準」だけではなく、
「周りがどうしているか」が、
行動の大きな基準になりやすいということなのかもしれません。

「同調」と「個人の価値観」

イタリアは、日本と比べると、
確かにルール違反や犯罪は多いと感じます。

キセルだったり、
盗難だったり、
「え、それありなんだ」と思う場面も、正直あります。

でも生活していて感じるのは、
日本とは少し“行動の基準”が違うということです。

日本って、
「みんながやっているから」
「周りがそうだから」
という空気が、かなり強く働く社会だと思います。

でもイタリアは、
もっと個人で動いている感じが強い。

やる人はやる。
やらない人はやらない。

周りがどうしているかより、
「自分はどう思うか」の方が先にある感じです。

もちろん、誰かが始めたことに影響されることはあります。

でも日本みたいに、
「みんながやっているから自分も」
という空気で、一気に揃って動く感じはそこまで強くない気がします。

例えば日本だと、
尊敬している人や、有名な人が何かを発信すると、
その人が好きだから同じようにやる、という感覚がかなり強い気がします。

でもイタリアでは、

「その人は好き。
でも、その考えには私は賛成しない」

みたいなことが、普通に共存している。

人と意見を分けて考える感じがあります。

だから友達同士やカップルでも、
「この人とこの人なんだ」と思うくらい、
全然違うタイプの人たちが一緒にいることも多いです。

日本だと、
どこか「価値観が合う」「空気が近い」みたいなものを、
人間関係に求める感覚が強い気がするのですが、

イタリアでは、
違う部分があっても、
「でもこの人が好き」
が普通に成立している感じがあります。

イタリアでは「自分の意見」を言うことが自然

この違いは、
日常の小さな場面でもよく感じます。

例えば、誰かのお家で一緒にご飯を食べる時。

日本で育った感覚だと、
誰かが作ってくれたものに対して、

「これ嫌い」
「これは食べない」

とは、なかなか言いにくい気がします。

せっかく作ってくれたのに失礼かな。
空気が悪くなるかな。
相手に申し訳ないかな。

そういうことを、先に考えてしまう。

もちろん、今は時代も変わってきて、
若い世代はまた違うのかもしれません。

でも少なくとも、
昭和で育った私の感覚では、

「せっかく作ってくれたのに」
「嫌いなんて言ったら失礼」

という感覚は、かなり強くありました。

でもイタリアでは、
子どもも大人も普通に、

「これ嫌い」
「これは食べない」

と言うことがあります。

そして言われた側も、
「あ、そうなんだ」
という感じで受け取ることが多い。

むしろイタリアでは、
本当は嫌いなのに何も言わずに合わせている方が、
不自然に見られる
こともあります。

「嫌なら嫌って言えばいいのに」

そういう感覚が、
とても普通にある。

「私はこれは好きじゃない」

それは、相手を否定している言葉ではなく、
ただその人の感覚として受け取られているように見えます。

この感覚は、日本で育った私には、
最初かなり新鮮でした。

日本では、
自分の気持ちより先に、
相手がどう思うか、場の空気がどうなるかを考えやすい。

でもイタリアでは、
まず「自分はどう感じているか」を出すことが、
もっと自然なこととして存在しているように感じます。

それはわがままというより、
自分の感覚をそのまま持っていていい、という空気に近いのかもしれません。

イタリア人は物事をとてもシンプルに見る

こういう感覚の違いは、
子どもへの接し方にもよく出ている気がします。

例えば日本だと、
子どもが騒いでいたり、周りに迷惑をかけそうになった時、

「ちゃんとしなさい」
「静かにしなさい」

と、親がすぐに止めないといけないような空気があります。

もちろん、それ自体が悪いわけではありません。

でもそこには、
「周りからどう見られるか」
という感覚も、かなり含まれている気がします。

一方イタリアでは、
もちろん親が注意することもありますが、

親が気づいていなかったり、
あまり気にしていなかったりすると、

レストランの店員さんや、
周りの大人が、普通に子ども本人に言うことがあります。

「そこで遊んでいると車が通るから危ないよ」
「そこにいると店員さんの邪魔になるよ」

という感じで、
もっと普通に、自然に伝えている感覚です。

怒るというより、
その場のことをそのまま伝えている感じに近い。

あと、何年か前にとても印象的だったことがあります。

息子・Eizが7歳くらいの頃だったと思います。

公園で、年齢の違う子どもたちと一緒にサッカーをしていた時のことです。

その中に、少し年上の、
11歳か12歳くらいの男の子がいました。

その子は、うまくプレーできないと急に怒ったり、
自分の中で勝手にルールを作ったりして、
時々ゲームが止まってしまうことがありました。

私は、
「どうしてあの子はあんなに怒っているの?」
と、その子の友達に聞いたのですが、

返ってきたのは、

「ああいう子なんだよ」

という言葉でした。

その言い方が、私にはすごく印象的だったんです。

もちろん困っていないわけではない。
でも、そこに強い否定の感じがあまりなかった。

「変な子」
「空気を壊す子」

というより、

「そういうタイプの子」

という感覚に近い気がしました。

日本で育った私には、
その見方がかなり新鮮でした。

日本では、
周りと違うことや、空気から外れることに、
かなり敏感な社会だと思います。

でもイタリアでは、
「違う人」が、もっと自然に存在している感じがします。

日本の「同調」が良い方向に働くこともある

もちろん、私は日本の「同調」が悪いものだと言いたいわけではありません。

むしろ、日本の秩序や綺麗さは、
こういう感覚によって作られている部分も大きいと思っています。

例えば、ワールドカップなどで話題になる、
日本人サポーターがゴミを拾って帰る姿

あれは本当に素晴らしいことだと思います。

周りを気遣うこと。
空気を読むこと。
みんなで同じ方向に動けること。

それは、日本の大きな強みでもあります。

もちろん、本当は、
誰かがやっているからではなく、

「自分も綺麗にしたい」
「自分もそうしたい」

という気持ちで動けるのが、一番理想なのかもしれません。

でも現実には、
どこの国でも、全員が同じ意識を持つことは難しい。

だからこそ日本では、

「みんながやっているから自分もやる」

という同調の力が、
結果として良い方向に働くことがある。

私はそこも、日本らしさの一つだと思っています。

逆にイタリアでは、
誰かが始めたとしても、
「自分はやらない」
を普通に選ぶ人もいます。

そこには良さもあるし、
まとまりにくさもある。

だから結局は、
どちらが正しいという話ではなく、

社会の中で、
何を基準に人が動いているかの違いなのかもしれません。

シンプルな感覚で生きるということ

もちろん、どちらの文化が正しいという話ではありません。

日本の同調には、日本の良さがあります。
イタリアの個人感覚にも、イタリアの良さがある。

でも、イタリアで生活していると、
「人は何を基準に行動しているのか」
その違いを、日常の中でよく考えさせられます。

周りに合わせること。
空気を読むこと。
人に迷惑をかけないようにすること。

それは、とても大切な感覚です。

でも、それが強くなりすぎると、
自分の感覚よりも、
「周りからどう見られるか」が先に来てしまうこともある。

イタリアで感じるのは、
もっとシンプルな感覚です。

まず、
「自分はどう感じるか」

そして、
「違っていても、それはそれ」

そういう物の見方は、
余計なものを抱え込みすぎない感覚にも繋がっている気がします。

イタリアだから、日本だから、ではなく、
私はもっと、こういうシンプルな感覚で生きていきたいと思うのです。

周りに合わせすぎないこと。
必要以上に空気を抱え込みすぎないこと。

もっとシンプルに、
「自分はどう感じるか」を大切にすること。

そういう感覚を、
私は大事にしていきたいと思っています。

今回の記事で感じた「同調」「自己肯定感」「親の関わり方」については、こちらの記事でも詳しく書いています。

👉 子どもを信じることから始まる子育ての軸

自己肯定感や関わり方の土台になる考え方を、一冊の本を通してまとめています。

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