少し前から、 ウェルビーイングという言葉を、 よく耳にするようになりました。
企業やマーケティングの中では、 もはや当たり前のように使われる概念になっているのかもしれません。
教育や子育て、 働き方や企業のあり方まで、 さまざまな場面で語られるようになっている言葉です。
そして最近は、 そういった感覚そのものが、 ビジネスやブランディングとして取り入れられている空気も感じます。
でも正直に言うと、 私はこの言葉に、 少し不思議な感覚を持つことがあります。
もちろん、 「自分にとって心地よく生きること」や、 「幸せを感じられること」を大切にする考え方そのものは、 とても大切なものだと思っています。
でも一方で、 私はイタリアで生活する中で、 こういった感覚が、 もっと自然に日常の中に存在している空気を感じることがあります。
今回は、 そんな「ウェルビーイング」という言葉について、 最近感じていることを書いてみようと思います。
この記事はこんな方におすすめです
- 「ウェルビーイング」という言葉に違和感を感じる方
- 日本とイタリアの価値観の違いに興味がある方
- 情報や価値観に疲れてしまうことがある方
- 子どもに“幸せを感じる力”を育てたい方
「ウェルビーイング」という言葉に感じる違和感
もちろん私は、 ウェルビーイングという考え方自体を否定したいわけではありません。
自分にとって心地よく生きることや、 幸せを感じられる状態を大切にすることは、 私自身、日頃からずっと考えていることでもあります。
ただ、 ウェルビーイングという言葉に限らず、 主体性、自己肯定感、自己受容など、 人の中にもっと自然に存在していた感覚を、 あえて言葉にしていくことで、 本来とは少し違う形で広がっていく感覚があるのです。
もちろん、 その言葉を広げた人たちは、 本当にその考え方に意味があると思って、 世の中に必要だと感じて伝えていたのだと思います。
哲学や教育、 心理学や子育てなど、 人がどうすればもっと幸せに生きられるのかを考える中で、 生まれてきた大切な言葉たち。
実際、 そういう言葉があることで、 今まで説明できなかった感覚を共有できたり、 「自分だけじゃなかった」と救われる人がいるのも事実だと思います。
でもその一方で、 言葉が広がっていく中で、 少しずつラベリングやブランディングのようなものが生まれたり、 新しい価値として社会に取り入れられていくこともあります。
そしていつの間にか、 「その感覚」よりも、 「その言葉っぽさ」や、 “それを意識していること”自体が広がっていく。
本来は、 自分にとって心地いいものや、 幸せを感じられる感覚を、 大切にするための考え方だったはずなのに、 いつの間にか、 “ウェルビーイングを意識していること”自体が、 一つの価値や、 「これが素敵」 「これが今っぽい」 という空気のように見えてしまうことがあります。
幸せを感じることそのものより、 「ちゃんと自分らしく生きているか」 「自分の心と向き合えているか」 を意識している姿勢そのものが、 一つの空気になっていくような感覚。
特に日本は、 一つの価値観や言葉が広がると、 みんなが一気にそれを意識し始める空気が強いようにも感じます。
本来はもっと、 人それぞれの感覚だったはずなのに、 いつの間にか、 「こういう状態がいい」 「こういう考え方が素敵」 という空気になっていくこともある。
私はそこに、 少し不思議な感覚を持つことがあります。
もっと昔、 人が今よりずっとシンプルに生きていた頃は、 こういう感覚は、 今みたいに説明される前から、 もっと自然に人の中に存在していたものも多かったのかもしれません。
みんなで食べること。 笑うこと。 身体を動かすこと。 何かを作ったり、 育てたりすること。 安心して眠ること。
そういう、 もっと単純で感覚的なものの中に、 幸せは自然に存在していた部分もあったのではないか。
だからこそ時々、 「幸せ」や「心地よさ」を、 あえて言葉にして説明し始めることで、 本来もっと自然だったものが、 少しずつ複雑になっていくこともあるのかもしれない、 そんなことを考えるのです。
「周りに合わせること」と、
「自分の感覚を大切にすること」。
日本とイタリアの違いから見える、
“同調”という感覚。
イタリアで感じる、「言葉にする前に存在していた感覚」
イタリアでも最近は、 wellbeing や benessere(ベネッセレ)という言葉を、 以前より耳にするようになりました。
もちろん、 昔から存在していた言葉ではあるのですが、 最近は特に、 企業や教育、ライフスタイルなど、 さまざまな場面で使われることが増えているように感じます。
ただ、 イタリアで生活していると、 こういった感覚は、 本来もっと自然に生活の中に存在していたものなのかもしれない、 と感じることがあります。
例えば、 家族や友人と長い時間を過ごすこと。 美味しいものを食べること。 人と触れ合うこと。 自分の「好き」「嫌い」を自然に出すこと。
子どもも大人も、 「自分はこう感じる」 という感覚を、 日本よりずっと自然に持っている人が多いように感じます。
もちろん、 イタリアだから全員そう、という話ではありません。
でも、 日本のように、 「こうあるべき」 「周りに合わせる」 という空気は、 比較的弱いように感じます。
だからこそ、 ウェルビーイングという言葉が広がる前から、 もっと自然に、 “自分にとって心地いい感覚” を、 生活の中に持っていた人も多かったのかもしれません。
そして最近は、 イタリアでも、 wellbeing や benessere のような言葉が、 少しずつ“意識して語るもの”になってきている空気も感じます。
もちろん、 それ自体が悪いということではありません。
でもイタリアでは、 もともと多くの人が、 そういう感覚を特別なものとしてではなく、 もっと普通に生活の中で持っていたようにも感じます。
だからこそ逆に、 wellbeing や benessere という言葉で、 急に「新しい価値観」のように語られ始めることで、 少し流行やビジネスのような空気を感じて、 日本以上に不思議な感覚になることがあります。
本来、 もっと自然に存在していたものだからこそ、 あえて言葉にして説明され始めることで、 逆に少し不自然に見えてしまう。
本来もっと自然だったものが、 「意識するもの」になっていく。
それは日本だけではなく、 どこの国でも少しずつ起きていることなのかもしれません。
イタリアでは、
親子の愛情表現もとても自然です。
「マザコン」という感覚との違いから見える、
イタリアの親子関係。
情報や価値観が溢れる時代に、「自分の感覚」は見えにくくなる
今は、 インターネットやSNS、 AI、 たくさんのものやサービス。
そして次々に生まれる新しい価値観の中で生きている時代です。
便利なものも増え、 選択肢も増え、 昔より自由になった部分もたくさんあります。
もちろん、 それ自体が悪いことだとは思いません。
昔より、 いろいろな生き方を知れるようになったし、 「こうじゃなきゃいけない」 から救われることも増えたと思います。
でもその一方で、 今は、 「こういう幸せもある」 「こういう生き方もある」 という価値観が、 次々に流れてくる時代にもなりました。
昔より、 “幸せの形”そのものが、 どんどん増えている感覚があります。
そして時々、 自分で何かを感じる前に、 先に“幸せの形”が入ってきてしまうこともあるような気がするのです。
本当は、 もっと単純な感覚だったのかもしれない。
美味しいと思うこと。 心地いいと思うこと。 誰かと笑うこと。 安心して眠れること。
もっと昔、 人が今よりシンプルに生きていた頃は、 今ほどたくさんの情報や価値観に囲まれてはいなかったはずです。
みんなで食べること。 身体を動かすこと。 何かを育てたり、 作ったりすること。
そういう、 もっと生きることに近い感覚の中に、 幸せは自然に存在していた部分もあったのではないかと思います。
もちろん、 昔の方が良かった、 ということではありません。
今だからこそ救われる考え方もあるし、 昔より自由になった部分もたくさんある。
でも、 あまりにも多くの価値観や情報に触れ続けていると、 「自分は本当はどう感じるのか」 が、 少し見えにくくなることもあるのかもしれません。
だからこそ今、 ウェルビーイングのような言葉が、 あらためて語られるようになっているのかもしれません。
子どもに育ってほしい、「幸せを感じる力」
ウェルビーイングという言葉について考えていると、 結局私は、 「幸せを感じる力」 のことを考えているのだと思います。
それは、 いつも前向きでいることでも、 何かを達成し続けることでもありません。
自分が心地いいと思える感覚。
頑張りたいと思える感覚。
そして時には、 「今は頑張れない」 と思える感覚。
うまくできない自分を、 「これでも大丈夫」 と思える感覚。
逆に、 何かを頑張れている自分に、 ちゃんと誇りを持てる感覚。
人と違う考え方を見た時に、 すぐ否定したり、 不安になったりするのではなく、 「そういう人もいるよね」 と思える感覚。
自分と違う幸せの形を見た時に、 「自分は違うな」と思いながらも、 それを否定せずに見られる感覚。
誰かの幸せを見た時に、 必要以上に自分と比べたり、 妬んだりするのではなく、 「その人が幸せならいいな」 と思える感覚。
それはきっと、 主体性や自己肯定感、 ウェルビーイング、 いろいろな言葉で説明されているものとも、 繋がっているのだと思います。
そして本当は、 そういう感覚こそが、 人が自分らしく生きていくための、 大切な土台になっているのかもしれません。
その土台があることで、 周りの価値観や空気に振り回されすぎず、 もっと自然に、 物事をシンプルに感じられることもあるのだと思います。
どんな時代でも、 周りの空気や価値観に飲み込まれすぎず、 自分の感覚を持ちながら生きていくこと。
そして、 人と違う幸せの形があっても、 それを否定せずに見られること。
私は、 息子・Eizにも、 そんな感覚を少しずつ育てていってほしいと思っています。
これから先、 もっと情報も増え、 もっとたくさんの価値観が流れてくる時代になるのかもしれません。
だからこそ、 周りに振り回されすぎず、 「自分はどう感じるか」 を、 ちゃんと持てること。
それが、 これからの時代を生きていく上で、 とても大切な力になるような気がするのです。
Eizにどんなふうに育ってほしいのか。
「自己肯定感」と「立ち上がる力」について。
「当たり前」を疑うこと。
人それぞれの価値観を自然に受け止められる感覚について。


